このほど小林千寿六段から、六段が監修されている囲碁漫画「天棋」の第三巻を頂いた。この物語自体は、すでに雑誌で連載されていて、その内容は広く知られているのだろうが、私はストーリー展開を全く知らないから、第一巻第二巻と面白く読み進めてきている。漫画は字を追っていく物語と違って、一枚の絵に含まれる情報量が多いから、なかなかすらすらとは読めないが、この漫画は、囲碁天才少年天碁が波瀾万丈の世界を生き抜いて、とはいうものの第三巻の末尾では半死半生の状態になってしまうのだが、ともかくそのダイナミックなストーリー展開が面白い。
さて、この漫画本は、大胆なストーリーの展開に引きつけられるが、それぞれの章の後ろにある「天棋ワールド」と題する一頁読み切りの囲碁随筆がとても面白い。これは、小林六段がその章における物語の展開に関連したトピックスについて書かれているもので、第三巻の「第二部四十手(第40章の意味)」の直後33頁に載っている「天棋ワールド」は、タイトルが「賭碁」であった。これは「天棋」第40章で、30両の賞金を争う「碁縁会」という将棋大会が開かれる展開になっているのに関係づけた一文である。「賭碁」というと、現代を生きる我々は、何か今の賭博のようなことと受け止めて忌避感情が先に走るが、ここで書かれているのは、それとは違う。小林六段が取り上げておられるのは、何と紫式部の源氏物語第44巻「竹河」なのである。
源氏物語には、囲碁に関する記述が何箇所もある。私はまだ見ていないが徳川美術館が所蔵する有名な「源氏物語絵巻」には、高貴な方々が碁盤を囲む場面も描かれており、「竹河」の巻の女性同士が碁を打っている図は、かつて郵便切手にもなった。源氏物語では、私がネットと文庫本で確認した限りで、「3空蝉」「9葵」「17絵合」「44竹河」「45橋姫」「46椎本」「49宿木」「50東屋」「53手習」の諸巻に碁についてふれている箇所がある。「空蝉」では空蝉と軒端荻が、「宿木」では帝が薫大將と、「手習」では宇治十帖のヒロイン浮舟が老尼である少将尼と碁を打つ場面があるが、この「竹河」では、玉葛の子供の大君と中の君の姉妹が、姉妹で三番勝負の碁を打つのである。そこで、勝った方の賞品は、何と庭の桜の木である。この争い碁のあと、勝った方負けた方それぞれが歌を詠み、あるいは女童が落ちた花びらを集めるなど、優雅な場面が展開する。
このように、碁は、女性が多くたしなむ遊びであったようだ。もちろん「宿木」の場合のように男性も打ち、また後述のように、男性の碁の名人上手もいたのだが、ともかく、碁によって、緊張の中にも穏やかに、時にはその場の感情が交わりつつ時間が流れていくのが、源氏物語であるように思われる。
また、当然、勝負事である囲碁は、賞品を賭けること、すなわち勝った方に、何らかのご褒美を与えることは、自然な感覚としてあったようで、帝と薫大將の碁においても、賞品のことが記述されている。まさに当時の貴族の優雅な営みの一環であったようで、近世の賭碁とは全く違ったもののように受け止めている。
さて、「手習」の場面で、浮舟と少将尼が碁を打った後で交わす会話の中に、「碁聖大徳」という名前が出てくるのが面白い。この時代にすでに碁の名人上手とされる人が存在した、あるいはその存在が認識されていたということで、興味がつのる。具体的には、少将尼が、浮舟の碁の強さに感嘆して、この碁を今不在の横川僧都の妹尼に見せたい、彼女もとても碁が強くて、横川僧都があたかも碁聖大徳のような碁の上手だといわんばかりの態度で妹尼と碁を打ったが、妹尼の方が2勝したのですよ、と語ったという内容と私は理解している。このように、「碁聖大徳」は極めて碁の強い人を表現する言葉として出てくる。
そこで、「碁聖大徳」について調べるべく、国立国会図書館のミニ電子展示「本の万華鏡」の第22の「囲碁」を開くと、その人物は、寛蓮(かんれん)という名の僧とされている。寛蓮は、醍醐天皇時代の僧で、文献に現われるのは、源高明著「西宮記(せいきゅうき)」が最初とされる。それは、延喜4年(904年)9月24日、醍醐天皇は、寛蓮と右少弁清貫を呼び寄せて囲碁を打たせ、寛蓮が勝って、唐綾4疋を与えられ、別に給与も支給された旨の記述である。「手習」の巻の中では、この「碁聖大徳」が寛蓮であるとは書かれていないが、源氏物語の注釈書には、これは寛蓮を意味すると註釈されているという。さらに、直接ではないにせよ、寛蓮を「碁聖」としたのは、源氏物語のこの巻が最初とされている。
とまれ、碁聖と讃えられた方々は、江戸時代にもおられ、今や囲碁の棋聖戦や碁聖戦、将棋の棋聖戦など「碁聖」「棋聖」という言葉は頻繁に使われている。いずれも、碁や将棋のトップを極めるような棋士というような意味であるが、それが具体的にどのような人を指し示すのかは、時代それぞれではあろう。
このような棋聖、碁聖から我々に至るまで、上手下手を問わず広く楽しめる囲碁は、末永くずっと盛んに打ち続けられることを強く期待したい。(2026年8月25日記)
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