持碁持将棋は別にして、普通碁将棋には必ず勝ちと負けがある。我々は、なにゆえに好んで勝ち負けがつく碁を打ち将棋を指すのだろうか。勝ちを求めるためか。自分の力量を知り、それを向上させるためか。それはある。それとともに、友人知人相手に緊張した没我の時間を過ごし、深い交友関係が構築することもある。頭の訓練にもなり、戦略的発想、戦術的思考が身につくことも期待される。メリットは多い。しかし、対局によって、多くの勝ちとそれと同数の負けが発生し、負けると苦い思いが残り、勝つと心が弾んで嬉しい気持ちになる。それは誰も同じだろう。
しからば、なぜ、我々は、勝つと嬉しいのだろうか。それは、勝利によって、自分の棋力が優れていることに喜びを覚え、力量の程を対局相手や関係者に知らしめることができることが、まずあろう。それは日頃の研鑽が有効であったことの確認と、長くそれを支えた人々への感謝の念へと広がるであろう。加えて、歴史的にも、勝負事には賞金がつきものであり、プロ棋士の場合は、勝つことは収入増に結びつく。プロの世界では、今やトーナメント形式の対局が多く、勝てば次の対局に進めて、更に対局料が貰え、負ければそこでおしまいだから、勝つことの経済的メリットは大きい。我々アマチュアも、大会に参加して勝てば、賞品が貰える。かくして、対局に勝てば、嬉しいことが沢山ある。
しかし、我々が勝つと嬉しいのには、もっと根源的な理由があるように思えてならない。現在を生きる我々は、何世代何十世代何百世代何千世代にわたって、我々の先祖が人間になるずっと前、生命の発生からこの方、勝って勝って勝って遺伝子を繋いできた生き物の子孫である。我々の先祖の歴史は、食糧獲得の競争など生きるための戦いに勝利して、昨日から今日を生き延び、明日のエネルギー獲得に備えることの連続であった。このように、勝たなければこの世に存在し得ない生き物の必死の営みの経験が我々の骨身にしみこんでいるはずだ。この世に生きる者は、全て勝ち組の末裔であり、勝つことが先祖代々生命を繋ぐ上に欠くべからざることであったという経験の蓄積が身体深くビルドインされていて、それが我々の勝利への希求の根底にあるのではないだろうか。
同時に、この地上に我々を存在せしめている長い長い営みの連続は、限りない数の敗北者を作ってきた。敗者は、勝者が生きるための食糧や道具として用いられてきたはずだ。敗者がなければ、勝者は地上に存在しえない。その意味で、敗者も、全生物が地上に永続するのに不可欠な役割を果たしてきた。
フランスの画家アンリ・ルソーの作品「豹に襲われる馬」と「餓えたライオン」を見ると、豹に襲われている馬は、実に無表情であって、悲しい顔をしていないし、餓えたライオンに噛みつかれているアンテロープは胴体から出血しながらも争うような顔ではない。彼等は生存競争の敗者となって、豹やライオンに喰われつつあるが、それは生き物としての使命を全うしつつ、運命を甘受しているような顔つきである。
NHK総合放送の日曜午後7時半からの「ダーウィンが来た」は、動物達が自己の生命と自分の遺伝子の維持に全力を挙げる日々を紹介してくれる。動物の務めは、食糧の確保であり、他の動物を捕獲して自ら食し、子供に与えることである。子供同士でも、食糧を廻って争い、ここでも勝者は生き延び、敗者は生命を失う。そして、状況に適合した者が勝者となり、それが種族全体の生命の維持に繋がっていく。我々は、他の生物を口にしなければ、生き続けることは出来ない。他の生物の命を頂いている。敗者は、生きるために懸命の努力をした上で、負けとなれば、その命を勝者のために提供し、生き物全体の維持進化のために大きな役割を果たしていく。
生き物が、生き続けるための営みの結果生ずる敗者の役割は、崇高なものである一方、勝者の末裔として今を生きる我々は、命を失いつつ負けていく時間における敗者のあり方そのものについて、十分に想いを及ぼすことは難しい。それは、「豊臣兄弟」のような大河ドラマで描かれる戦いに負けてもなお誇りを持って死んでいく戦国武将の心の状況とまた違うのだろうか。生き物の歴史において、命を失わなければできない負けの経験を、近代スポーツの世界やボードゲームの盤上では、生き続けたまま繰り返して経験することを可能にしている。負けるとはどのようなことか、勝つとはいかなることか。盤上の勝敗は、命を賭けた勝敗の争いの疑似体験ではあるけれども、生き物の生存を支えてきた勝ちと負けに思いを及ぼし、命あるものの生き方の根元に思いを馳せる契機を提供しうる。かくして、碁将棋の勝負は、我々がこの地上に存在しているのは過去における奇蹟の連続の結果であることを想起する貴重な機会になると思っている。(2026年9月27日)
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