子供の頃、私の小松の家には、将棋盤はあったが、碁盤はなかった。祖父は、碁や将棋が好きでなく、勝負事にのめり込むなといつも言っていた。碁盤は私に良くないと思って始末したけれども、将棋盤はそれを忘れたのかもしれない。しかし、近所の友達の家には碁盤があったので、祖父の言葉もものかは、私は小中学生の頃から碁を打ち、将棋を指していた。かくして七十年も将棋や碁に親しみながら、一向に技倆が向上しないことには、驚くほかはない。祖父の言葉が胸の奥底に沈潜していて、上達することについて体内で何らかの抑制が働くのではないかとすら思う。
そんなことを思いながら、碁盤や将棋盤をじっくり見ていると、いかなる理由で、現在の大きさになったのか考えさせられる。
将棋は、かつて大将棋というものがあった。盤が大きく駒の種類も多かったようだが、今は、現在の縦横9×9の9路盤が不動のものとなっている。チェス盤も8×8だし、中国将棋象棋(シャンチー)も、9×10と同じような大きさだから、妥当な時間内で勝負が決まる広さとなると、自ずとこのあたりのサイズに収斂するのかもしれない。
囲碁の場合は、19×19の19路盤。盤がもっと広くても狭くても、ルール変更は全く不用であり、今は、初心者用、あるいは勉強用に、13路盤や9路盤がつくられ、盛んに使われている。しかし、正倉院御物の碁盤はすでに19路盤であるし、源氏物語絵巻に描かれている碁盤も19路盤に見える。ただ、当時すでに13路盤などがあったかもしれない。ともかく、現在まで、正式の囲碁の勝負で19路盤が使われ続けているのは、やはり勝負を楽しみつつ決着がつく時間が妥当な長さであるとか、持ち運びが便利な大きさとか、いろいろな理由があったと思われる。
さて、碁盤に、辺や隅があるのは、いかがなものかと思う人があるかもしれない。著名な理論物理学者でノーベル賞を受賞した英国のディラックは、右辺と左辺を繋げ、上辺と下辺を繋げて、ドーナッツ状にしたトーラスの上で戦う「ディラックの碁」を考えついている。ディラックの碁は、実際に打つとなると、別にドーナッツ状の盤を用いなくとも、平面の普通の碁盤を使って、右と左、上と下が繋がっていると想定すればよいだけなので、私は、五十数年前の公務員時代に、先輩と試みた。その結果、普通の碁盤で打つよりずっと単純で変化が少ないことを認識した。やはり、碁は、スミがあり、ヘンがあり、中央部分があってこそ手段が多様で、面白いことを確認した。ただ、ディラックの碁盤では、第一着はどこに打っても同じなので、第二着がそれとの相対関係で意味を持つことが何とも面白かった。
マス目の中に駒を置く将棋盤と線と線の交差点に石を打つ碁盤は似ているが、碁盤は、縦横格子状の線がやや細かく、将棋盤はそれより粗い。私の妻は、かつて、テレビに映る盤の格子の粗さで、囲碁の時間と将棋の時間を区別していたが、最近はそうでもない。
確か、「サザエさん」だったと思うが、若い浴衣姿をした二組の男女が歩いているシーンを漫画にしていた。ひと組は、粗い格子の浴衣と白黒の小さい円形が沢山散らばっている浴衣のペア、いまひと組は細かい格子の浴衣と将棋の駒を散らした浴衣のペアだった。つまり、図らずも、将棋盤模様と碁石のコンビと、碁盤模様と将棋の駒のコンビになってしまっているので、男か女かが入れ替われば、ピッタリくるのにという場面であった。なるほどと感心したことを懐かしく思い出している。
(2022年6月26日記)
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