バンガイ編の初回で書いたとおり将棋の先崎学九段は特別な能力を有する棋士である。もっとも、囲碁将棋のプロ棋士は、一般人に懸絶する棋力の持ち主ばかりだが、先崎九段は、加えて、その筆力が、そちらのプロにもなりうる程で、「先崎学の実況!盤外戦」は、実に読ませる随筆である。そんな九段は、文藝春秋の2021年5月号のコラムに「将棋短歌」と題する一文を草し、自身の著書「先崎歌壇笑」の紹介とともに、同僚棋士を詠んだ歌を示され、「将棋は遊びで、人の笑顔をつくるためのものである」と喝破されている。最後は、「人の世に 活気を 余暇に くつろぎを なにもつくらぬ 棋士の役目は」と、句またがりの一首で締めくくられている。確かに将棋棋士や囲碁棋士は、直接生活に役立つ製品を造ったり、生活を便利にするサービスを提供したりすることはない。
文化芸術基本法の第3章第12条において、囲碁と将棋は「国民娯楽」と位置づけられている。私どもにとって囲碁と将棋は間違いなく娯楽である。そして、娯楽には極めて大きい効用がある。私は娯楽なくしては生きていけないし、多くの人もそうであろう。また、我々は、碁を打ち、将棋を指すことによって、判断力、忍耐力、思考力を涵養しうるであろう。しかるに、プロの囲碁将棋には、これに加えて大きな役割があると思う。棋士同士が相まみえる盤上の戦いは、我々は手に汗を握って楽しんでいるが、一手一手に込められたヨミは誠に深く、できあがった棋譜は芸術品とも言える。今や人工知能(AI)の棋力は、囲碁将棋のプロ棋士を上回り、AIを使えば、その局面における双方の勝率が分かるが、かつては、AIとプロ棋士との対局の勝ち負けがAI進歩のメルクマールとなったほどだ。プロ棋士達は、「対局」という文化的サービスを通じて、この世に生きるものの頭脳の働きの極限を示して、それを押し上げ、我々一般人に人間の大きな可能性を示して勇気づけ、明日を生きる喜びを湧き上がらせる役割を果たしている。まさに先崎九段が、「人の世に活気を」と詠まれたとおりである。
さて、先崎九段の随筆「先崎学の実況!番外戦」の第2部は、「番外戦七番勝負」のタイトルのもとに、とても比べることができない二つのものを並べて、大胆な独断で、勝負をつけられているのが面白い。勝ち負けに生きる棋士先崎の面目躍如たるところであるが、その七番勝負とは次の取組みである。①「デジタル時計・アナログ時計」②「俳句・短歌」③「性善説・性悪説」④「打上げ花火・線香花火」⑤「どこでもドア・タケコプター」⑥「りんご・みかん」⑦「将棋・囲碁」。この七番勝負の中で特にハラハラドキドキの一番は「将棋対囲碁」である。将棋棋士先崎が将棋に軍配を上げるのは読まない先から分かっていることだが、事前に囲碁棋士である先崎夫人にお伺いを立てているところがすばらしい。それに対して先崎夫人が「そんなもの勝負をつけるものじゃない」と大正解の断を下しておられることに思わず微笑んだ。
なお、「俳句対短歌」の取組みも、興味津々たるものがある。あっけなく短歌の勝ちとされ、「古池や蛙飛こむ水の音」の一句には感興が湧かないとしつつ、石川啄木の「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」は分かりやすく極めて同感できるとされている。しかし、九段のホンネは明らかだ。九段は、俳句も短歌も愛しており、両方とも大好きなのだ。さらに言えば、七番勝負いずれも、双方を愛して止まずというのがその心の中のはずだ。だからこそ、この大胆な七番勝負の構想が生まれたのだと思っている。(2022年9月1日記)
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