9月9日、本因坊就位式に呼ばれたので、末席を汚すため、ひさしぶりに目白椿山荘の門をくぐった。椿山荘はなつかしい。私は大学生時代の4年間、このホテルの極く近くにある財団法人和敬塾の北寮で過ごした。神田川左岸の目白台は、田中角栄邸、目白運動場、細川侯爵邸のあとの和敬塾、講談社の野間省一邸、そして旧山縣有朋邸であった椿山荘が並ぶようにして続いていて、今も、様子はそれほど変らない。学生時代は椿山荘に入ったことはなかったが、夏には、椿山荘で放す蛍が和敬塾の私の部屋の窓辺まで飛び来って、蛍雪の功成れかしと励ましてくれるように感じたものの、その甲斐がなかったのは残念ではあった。その後、椿山荘は、旧科学技術庁の若手職員の仲人を務めたり、北國新聞社が牽引する1000人規模の「いしかわ県人祭in東京」の実行委員長を長く仰せつかったりして、訪れる機会は結構多かったが、今回は囲碁の式典であるから、これまでと全く違った気持ちでホテルの玄関に足を踏み入れたのである。
今年の本因坊就位式は本因坊文裕(もんゆう)の第11期目で、本因坊戦の歴史において新記録となるものであり、井山本因坊のご家族も小さい令息を伴って参加された。一同が拍手でお迎えする中を、登場された井山本因坊は、紋付羽織袴姿だった。松木健毎日新聞社社長、小林覚日本棋院理事長、正岡徹関西棋院理事長からそれぞれ主催者挨拶があり、小林理事長から井山本因坊に允許状が手交された。続いて、松木社長から賞金目録が贈られた。次いで、協賛社の大和証券グループの阿部東洋本社執行役員から挨拶と記念品の贈呈があり、来賓として最終局第4局の会場を提供された九州国立博物館の島谷弘幸館長が祝辞を述べられた。締めは本因坊文裕ご自身の謝辞。コロナの影響がいまだ世を覆う中、短くせざるをえなかったであろう就位式はとても厳粛で引き締まったものだった。
二度も七冠を同時に取られて、国民栄誉賞に輝き今も本因坊名人である井山本因坊が、さらに研鑚を積みたいと謙虚に強い決意を述べられたことに感動した。また、日本棋院の運営責任者小林理事長が、にこやかにさわやかに大役をこなされる姿がまぶしかった。
式典終了後、ゆっくり懇談する機会はなかったが、挨拶で囲碁のオリンピック種目入りを強く訴えられた正岡関西棋院理事長と短く話したところ、理事長は数独で囲碁の力を鍛えておられるとのこと。数独で数字が入る枠は9×9で、将棋の盤面と同じであるが、枠の中の数字は動かずに白地のマスに次々にヨミを入れて埋めていくところが囲碁に通じている。囲碁の訓練と勝手に思って、盤面に向かう前に数独を解いたことがあったが、理事長の示唆で意を強くした。
また、加賀前田家に伝わる美術工芸品等を広く公開する2026年開催予定の前田育徳会創立百周年記念展覧会の企画をご相談している島谷館長にご挨拶できたのも幸いだった。
今回の本因坊挑戦手合七番勝負は、タイトル保持者井山本因坊の4連勝という結果となったが、私は、金沢尾山神社の一局が、緒戦ながらこの番勝負の天王山だったとひそかに思っている。なにせ357手と盤面の地所総数361に迫る長手数の一戦で、しかも勝負は本因坊の半目勝ちだった。一日目は、専門家の解説では、一力遼挑戦者有利のうちに推移していたとのこと。二日目の午後9時過ぎに至るツバ競り合いで、プロの至芸を心ゆくまで味わった。私は、「すばらしい一局だった。存分に堪能したぞ。」という前田利家公のお言葉と「私も楽しかったわ」という芳春院お松の方のお声が聞こえるような気がしている。井山本因坊と一力挑戦者に深く感謝したい。(2022年9月24日記)
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