(15)マスクと将棋

 10月28日の永瀬拓矢王座と佐藤天彦九段の将棋順位戦A級対局で、佐藤九段がかなりの時間マスクを外して、負けの判定を下されたことについて、いろんな意見がネット上に開陳された。今は落ち着いたようだが、報じられたところを総合すると、今回の一件は、普通のプロセスをたどっていて、格段に揚言することでもないように思える。

 本件報道に接した人々が、すぐの反応として、マスクを外したら一発で負けというのはひどすぎる、コロナ感染防止の観点というなら一言注意すればよいだけではないかという思いを抱き、一部の文化人を含む多くの人々が、この判定は理解できないとネットで声を上げたのは、もっともと思われる。しかし、そんな方々の多くは、プロ将棋棋士の対局実態について熟知しておられるとは言い難いようだ。もちろん、かく言う私もごく普通の素人に過ぎないのだけれども。

 日本将棋連盟では、コロナ流行を受けて、対局時のマスク着用不着用について、いろいろいきさつがあった末、結局、棋士の総意によって、マスクを外したら負けというルールをはっきり決めている。もちろん、長時間の対局中、一瞬でもマスクを外せば負けということではなく、一時的な場合にマスクを外すことは認められており、「一時的な場合」とは何かという説明も周知されている。要は、飲食する場合や周りに人が居ない場合を除き、基本的にマスクを着用して対局すべしということである。一時的な場合の時間の長さを決めておくべきであったという議論もあるようだが、細部を細かく決めれば決めるほど、動きがとれなくなっていくので、日本将棋連盟のルールは決まりとして合理的と思われる。

 対局時における立会人の不在について疑義を呈する向きもあった。しかし、挑戦手合等を別として多数の一般対局に全て立会人を付けるというのは実際には不可能で、しかも負けの判定は必ず立会人が行うこととはされていないようだから、立会人が不在であったのがいけないとは言えないようだ。

 また、最終判断の責任を負う将棋連盟会長が、当事者と同じ順位戦A級で戦っている佐藤康光九段であることは公平を欠く、という指摘もあった。これについては、日本将棋連盟が大きな組織であるならば、将棋を指す棋士と棋戦その他の運営に関わる管理者をキッパリ分けるのが理想かもしれないが、それには連盟のあり方と組織を抜本的に換えなければならず、現実にそんなことはできない。会長は、一面対局者の一人であり、棋戦で戦う者同士では特定対局者にとってライバルではあるが、他面公平な組織運営者でありたいと心に期しておられるはずで、そのような一見利益相反がおこる疑念のある場合にも、公平に判断できる人物を棋士全体で会長や役員に選んでいるはずである。そんなことで、最終責任者が当事者のライバルであることをもって仕組みがおかしいと非難することは当を得ていないと思われる。

 あれこれ考えると、これまでの将棋連盟の規約や運営に大きな問題があったとは基本的には思われない。もちろん、規約は棋士の総意で柔軟に改定できるし、立会人制度の充実等運営の改善を図ることは大切であろう。それとともに、現行規約では、不服の申し立てができることになっているから、佐藤天彦九段がそれを踏まえて申し立てを行ったことは、これまた全く正当である。ただ、申し立ての中身が認められるかどうかは別問題で、客観的に見て、そのうちかなりの部分は却下されるのではないかと思っている。しかし、それは佐藤天彦九段がルールを踏み外した行動をとったことを全く意味しない。今日までのところ、申し立てに対する裁定が下されたという報道には接していない。

 対局中のマスク着用を義務づけるルールそのものについては、いろいろ議論があろう。これを最新のコロナに関する知見に基づいて改めていくことは当然必要である。ただ、日本将棋連盟が、コロナ下において、安全安心な対局を続けていくのに筆舌に尽くしがたい苦心をして、現在のルールを設けたことは十分理解すべきであると思う。これは、将棋の世界だけではなく、学校の授業、歌唱、演劇、茶道その他、密な状態における発声、飲食等の行為で唾液などが発散されやすい分野全てで大変な苦労を重ねて工夫をこらし、改善を加えながら、今もその道を歩み続けているのである。なお、将棋対局中、対局者は声を発しないからマスク着用は不要との意見もあったが、小さい将棋盤を挟んで一日中顔をつきあわせているのだから、どうしても、咳やクシャミが出てしまうし、記録係とのやりとりなども行われる。プロの対局は、1時間もかからない我々の趣味の対局と異なって長時間かかるから、そんな実態に基づいていろいろ検討した結果、マスクについて現在のルールが決められ、ルール化した以上それを公平に守らなければならない将棋連盟に落ち度はないと思われる。また、遠隔対局を採用してはどうかという声もあったが、我々素人はオンラインでの対戦を十分楽しんでいるものの、プロ同士では対局条件を公平公正にするためには大きな課題を克服する必要があり、数多くの対局に適用することは、これまた困難であろう。

 なお、囲碁ではマスク不着用は注意するだけの規定になっているということだが、将棋は将棋、囲碁は囲碁と割り切るべきである。ただ、この違いについては、囲碁と将棋の特徴を反映したものと思われて興味深い。

 最後に、ネットなどで、将棋連盟のルールやその運営に問題ありと非難した方を、プロの将棋の実態を知らないで勝手なことを言ったと論難することも、私は全くしたくない。このことがキッカケとなって、これまで将棋に対する関心がそれほど深くなく、将棋連盟の組織やその運営の実態に迂遠であった方々が、将棋に関心を寄せて、いろいろな見解を述べられたのはむしろ有り難いことと思う。これを機に多くの方々に、将棋に対する関心を深めて頂き、このボードゲームに生涯を掛ける天才達を温かく見守り応援する輪がさらに広がれば、今回のことも、むしろ将棋界にとって、幸いではなかったかと思われる。

 「どの人もいけないことはしていない」というのが私の結論である。(2022年12月15日) 

石川県人 心の旅 バンガイ編 by 石田寛人

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