将棋の佐藤天彦九段のマスクに関する件で、プロ棋士の囲碁将棋対局は沈黙のうちに行われることが論じられた。プロの対局で、対局者同士が相互に言葉を交わしながら指し手を進めるということはないようだが、かつては対局内容に関係のない会話が交わされたことは、それなりにあったと想像される。また、記録係は、残り時間を告げたり、秒読みしたりするために声を出すし、係の人が昼食や夕食の注文を訊くと棋士はそれに答えなければならないから、対局室が完全な無声の場ということではないはずだ。しかし、囲碁でいう局後の検討、将棋でいう感想戦は別として、基本的にプロの対局は、静かに行われる。
それに対して、アマチュアの囲碁将棋の対局はにぎやかなことが多い。声を出す人はかなりいる。というより、その方が多数派かもしれない。「こうやる、こうくる、こういく」と声を出しながら手を読む光景はよく見られる。脳内回路の動きが思わず声になることもあろうが、声を出すことによって、手を読む難しさで体内に溜まっている鬱勃たるものを解放しているようでもある。さらに、声を出すこと自体が快感となって、ダジャレ、語呂合せ、地口、格言もどき、決断の言葉などが口をついて出る。これらには、何とも面白いものが多く、これは我が国の大衆文化のしからしむるところとすら思える。
私が子供の頃、曾祖父は決して将棋を指せとは言わなかったが、初めて相手に王手をかける時の「初王手、目の薬」という言葉を教えてくれた。これは将棋の王手は基本的に心地よいもので、特に初めての王手は気持ちがスーッとするとことを表現したものと受け止めた。他面、初王手は気分がよいだけで勝つために有効とはいえないことも多いので、昔から効いたか効かないかよく分からないとされることもある目の薬に喩えたと説明する向きもあった。これについては、最近科学技術の世界で大きな課題であるセンシングに関して、そのための器官としての私達の目は極めて大切で、前にも書いたように、動物が今日まで進化しえたのは、目を持ったことが大きなキッカケとされており、そんな目の病を癒やす薬はとても重要で、その効能に大きな期待を寄せたいと思っている。
地口やダジャレのふるさとは、町の碁会所や将棋道場だろう。これらの場所に、私はあまり行ったことがないが、時々参加する大会での対局や音声入りのオンライン対局でも、いろんな声が乱れ飛ぶ。
「こういこう」と決断して放った着手に対し、予期した通りと勇んで応じて、「来たかチョーさん待ってたホイ」。すばらしい手でこられたと感心すれば、冷やかしの意味も込めて「おそれ入谷の鬼子母神」か「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」。ウムそうきたかと考える時は、「そうか。そうでありまの水天宮」[当の水天宮ではこの地口を「情け有馬の水天宮」として用いているようだ。]。自分の思いと違った手でこられて驚くと「びっくり下谷の広徳寺」。「そうかあ」と考えると、「草加、幸手は千住の先」。大したことのない手だと鼻先であしらわれそうなときは、「鼻でフン忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)か」。持ち駒を訊かれて、「歩ばかり山のホトトギス」。持ち駒に金将と桂馬と香車が並んで、「金桂香(金鶏鳥)は唐(から)の鳥」。思わぬ反撃を受けて、「何とおっしゃる、ウサギさん」。好手をくらって弱ってしまうと「弱った魚は目で分かる」。力を込めて碁石を打ち下ろしたり大模様に単騎侵入したりすると、「そりゃ打ち込む青春だ」。隠された手段を見破って「その手は桑名の焼け蛤」。思惑通りにはさせないと「そうはイカの金太郎」。大駒を捨てて「飛車をキリマンジャロ」。いよいよ手がない時は、「もうアカンコ(阿寒湖)」。[このふたつは将棋解説の際オヤジギャグで聴く者を楽しませる豊川孝弘七段のレパートリーのうち。書籍にもなっている七段の面白い数々の表現については別に触れる機会もあると思う]。私の化学に強い友人は、困った局面では「コマリロニトリル」と化学工業の重要な中間体の分子名「アクリロニトリル」をもじって叫ぶのがツネだった。着手と応手に関連した言葉は実に多く、今も、各所で創作されていると思われる。
私は黙って対局するタイプだが、このようなおしゃべりは、アマチュアにとって、囲碁将棋をより楽しいものにしている場合も多く、コロナ感染拡大を招かない範囲で、面白いやりとりを微笑んで聞いていたい。(2023年1月20日記)
0コメント