前々回、アマチュア囲碁将棋は、おしゃべりがうるさいけれども、楽しくもあると書いた。対局中に口をついて出る地口、ダジャレ、オヤジギャグのたぐいは、誰もが知る分かりやすい地名や神社仏閣の名前が使われている。思わず口から出るものだから、構造としては、始めの部分が心からの「叫び」や「うめき」であり、続く言葉がそれの関連語であることが多い。「草加、幸手は千住の先」では、言うまでもなく「草加」がポイントで、幸手の代わりに栗橋でもよい。事実そのように言うこともある。千住の方は、日光街道で草加宿の手前の宿だから動かせない。「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」では、前半が率直な声だ。我々が見上げるのは屋根屋だけでなく、今や、東京タワーやスカイツリーならもっと高く見上げられるが、これはテレビ「笑点」の三遊亭小遊三師匠的な表現だろう。「勘違い、炬燵で母の手を握り」も同じ系統だ。
しかし、時には、意味が不明なものや難解なものがある。
まず、「そうで有馬の水天宮」。今や「有馬」と「水天宮」の関係がよく分からないという人がある。しかし、昔は広く知られていた。文政元年(1818年)に久留米藩9代目有馬頼徳公が江戸の上屋敷に久留米で安産の神様として尊崇されていた水天宮を江戸の藩邸内に勧請し、後に一般の人々の参拝を認めたので「情け有馬の水天宮」と人々に喜ばれたということだ。祭神は天之御中主神、安徳帝、高倉平中宮(建礼門院)、二位の尼で、明治時代に現在地に動座されたようだ。私も、娘の安産祈願で水天宮に参拝した。神社の歴史からすれば、「情け有馬」の表現が正統で、「そうで有馬」の方は、ややへらず口という感じがする。
次に「こうやれば親が泣く」。これは難しいが、「子」と「親」の対比で語呂合わせをしたものと思われる。現実の囲碁や将棋の局面では、①頭に浮かんだ着手は悪手なので、こんな手では、自分の親が泣くというのか、②好手を思いついたので、この手で相手を負かせば、相手の親が泣いてしまうということか、③一般的に、子供を里子などに出して、他人の家にやる時、それが悲しくて親が泣くということなのか。解釈は定まらない。対局中に「こうやれば・・・」と声を漏らすのは、アマチュアには一般的だから、「こうやれば、こうやれば」と唱えているうちに、ついつい「子をやれば」となって「親が泣く」の句が付いたという気がしないでもない。
続いて、将棋の持ち駒に関する「歩(ふ)ばかり山のホトトギス」。これについては、よくは分からないのだが、私自身の考えを「石川県人会の絆」2018年7月号(「心の旅」本編でもアップ)に書いた。仏教賛歌の「法の深山」の歌詞「法(のり)の深山(みやま)のホトトギス」から「法(のり)」から「法(ほう)」へ、更にそれが「ふ」に転訛し、「法のみやま」の「のみ」から「だけ」「ばかり」に転じたのではないかという推測がそれである。
最後に、「手も足も出ない」という意味で使われる「ヤカンにタコ」。これはヤカンに生きたタコ入れると出口の無いヤカンの中で、タコは、どれだけもがいても、手も足も出ないと言う意味だと思ってきたが、「ヤカンでゆでたタコ」と言う言葉もあるようで、「ゆでられたタコ」は固くなってヤカンから手も足も取り出せないということでもあるようだ。すなわち「生きたタコ」なのか「ゆでたタコ」なのか、という疑問がある。しかし、対局中に思わず口をついて出る言葉の解釈であれこれ言うのは無粋な気もすると漏らしたら、妻曰く「ごもっとも」。(2023年3月25日)
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