歌舞伎には囲碁に関係する演目があり、それぞれ面白い。参議院議員・官房副長官を務められた藁科満治氏は、このことに詳しく、著書も出されており、私も早く読みたいと思っているが、まだ手許にないので、まずは私の思いを綴りたい。
タイトルに「碁」が付くことで有名なのは、「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」である。この演目は、バンガイ編(2)で触れた歌舞伎の大人気演目で「独参湯」と言われる「仮名手本忠臣蔵(かなでほん・ちゅうしんぐら)」の先行作品のひとつであるが、近松門左衛門の筆によるもので、単なる先行作ではなく、「仮名手本忠臣蔵」の主な役名は本作からきており、作品自体、今も上演される。
播州赤穂の殿様浅野内匠頭が、殿中で高家筆頭吉良上野介に刃傷に及んで切腹した事件と、浅野の家来だった一統が吉良家に討ち入って上野介の首級を挙げた事件は、元禄14年(1701年)3月14日と翌15年(1702年)12月14日のこと。江戸の人々の話題をさらったこの大事件は、元禄16年2月4日に赤穂義士46人が切腹して決着したが、当時の江戸の人々の間で大きな話題となった。そこで、歌舞伎や人形浄瑠璃にして多くの客を呼ぼうという動きが起こったのは必然だったが、このような事件を劇にするには、何らかの有名な歴史的事件を下敷きにするのが一般的であった。
まず大きな仇討ちという点からすると、曾我兄弟の敵討ちがある。そこで、義士切腹から12日後、早くも江戸中村座で「曙曾我夜討(あけぼの・そがのようち)」という演目の歌舞伎が舞台に掛かったと伝えられるが、本当に上演があったかどうか、実のところは不明のようだ。
次にこの一件は壮大な復讐事件であるということで、小栗判官と照手姫の復讐劇に結びつける試みがなされた。「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげ・むさしあぶみ)」や「忠臣金短冊(ちゅうしん・こがねのたんざく)」などはこの系列の舞台である。近年も、「オグリ」は市川猿之助のスーパー歌舞伎の演目になっている。
また、上野介が「高家」であったことと、浅野家の赤穂が塩の名産地であったことから、「髙」と「塩」がこの一件を象徴する字であり、足利尊氏を助けて辣腕を奮った高師直と、この人物に美しい妻が横恋慕され結局讒死に至ったとされる塩冶判官高貞の一件を太平記の巻21からとって戯曲化することが行われた。事件からしばらくたった宝永7年(1710年)に近松門左衛門の作で上演された人形浄瑠璃「兼好法師物見車(けんこうほうし・ものみぐるま)」がそれである。高師直は、塩冶の妻を口説こうとして、徒然草の執筆者兼好法師に恋文の代筆を頼んだことが内容となっているようだが、私は、この芝居の詳細は全く知らない。
更に、浅野家の家老で敵討ちの首魁大石内蔵助の姓の「大石」から囲碁の「石」に連想が及んで囲碁を芝居の筋に取り入れることが行われた。「兼好法師物見車」の続編である「碁盤太平記」が近松によって書かれたのである。芝居の役名は、太平記そのままに、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直。そして、大石内蔵助の役名は、大星由良之介(助)で、「石」を同じく囲碁に縁の深い「星」に代えて姓に使っている。
ここで使われた役名が、寛延元年(1748年)初演の「仮名手本忠臣蔵」にそのまま用いられている。ただし、義士の銘々は、太平記からというわけにはいかないので、実名を少し替えたものが使われた。
このような位置づけにある「碁盤太平記」は、塩冶方と師直方の二重スパイであった岡平こと寺岡平右衛門が、その正体を誤解した大星由良之介の長男力弥(実名は主税)に切りつけられ、瀕死の状態で、仇敵高師直の屋敷の図面を碁石で教えるという場面が眼目になっている。塀を白石、建物を黒石で表わし、碁石の1目で10間の長さを表現して、具体的に師直屋敷の姿を伝えつつ岡平は絶命、最後、大星たちは敵討ちに成功するという話である。まさに「碁盤太平記」と銘打つにふさわしい内容であるが、この場面は、「仮名手本忠臣蔵」の九段目、山科閑居の段でわざと力弥に槍で突かれて瀕死の加古川本蔵(この人物が塩冶判官を殿中で抱き留めたため、判官は師直を討ち果たすことができなかった。)が師直屋敷の絵図面を渡す場面に応用されている。いずれにせよ、囲碁が歌舞伎の外題に使われているのは、我々フアンにとってとても嬉しいことである。(2023年6月25日記)
0コメント