前回に続いて歌舞伎と囲碁の話。そして将棋も少々。私は幼い頃病弱で、よくお医者さんにかかり、家では蒲団に横たわっていた。曾祖母は、そんな私の病床に、いつも枕屏風を立てかけてくれていた。その屏風には昔の絵が四枚貼ってあった。左の二枚のうちの一枚は、妖しい顔で変な目つきの男。もう一枚は、頭いっぱいに花かんざしをつけたお姫様のような女性。右の一枚は立派な大人の男性、いま一枚は若い女性が二人上下に描かれていた。その枕屏風はもうなくなったが、今にして思えば、これらは歌舞伎の浮世絵だった。
左の二枚の男女は「義経千本桜」の「四の切」、「河連法眼館の場」の狐忠信と静御前だった。男は佐藤忠信に化けていた狐が本性を顕わしたところなのだから、顔が妖しげなのは当然で、お姫様と思ったのは、源義経の愛人で彼が守護してきた静御前だった。私は、男の顔が気持ち悪いと何度か訴えたが、曾祖母は、この人は実は狐で、好い狐なのだから気にしないでもよいと諭してくれていた。
右の二枚は、「碁太平記白石噺(ごたいへいき・しろいしばなし)」の絵だった。熟年男性は揚屋の主人大黒屋惣六、二人の若い女性は花魁(おいらん)宮城野(みやぎの)とその妹で奥州から出てきたばかりの信夫(しのぶ)だった。子供の私には芝居の内容は全く分からなかったが、後年、この芝居は題名に「碁」が付いており、なかなか面白いと思うようになった。
外題の「碁太平記白石噺」は、「太平記」の主役の一人楠木正成を尊敬して慶安事件を起こした由井正雪の動向を歴史書「後太平記」と関係付け、それに碁に縁の深い「白石」出身の宮城野信夫姉妹の仇討ちの一件をからめたことからきていると思われる。なお、登場人物の一人大黒屋惣六の名前を大福屋惣六とすることもあったようだが、やはり「碁太平記」には、「大黒屋」と「黒」を強調し、「白石」と対比させるほうが良いようで、今もそのようになっている。
慶安事件とは、慶安4年(1651年)将軍家光の没後すぐに、軍学者由井正雪と槍術師範丸橋忠弥が幕府転覆を企て、途中で露見して失敗に終わった事件である。こんな幕府転覆事件を江戸時代に芝居にできる筈もなく、「碁太平記白石噺」も、由井正雪がモデルの宇治常悦(うじじょうえつ)は、幕府転覆と全く関係なく太平記の世に南朝復興に努力する人物となっている。劇中、この宇治常悦が、丸橋忠弥をモデルにした鞠ヶ瀬秋夜(まりがせしゅうや)と碁を打つ場面があるようだが、この劇は、今を盛りの花魁宮城野と奥州なまりで心情を訴える信夫の対比に大黒屋惣六が貫禄を見せる新吉原揚屋の部分の人気が高く、今も、しばしば上演されている。
なお、慶安事件による幕府転覆の企てそのものについては、明治に至って「慶安太平記」の題名で、舞台や講談、落語などで演じられるようになり、河竹黙阿弥が書いた歌舞伎本では、「樟紀流花見幕張(くすのきりゅう・はなみのまくばり)」なる外題が使われた。近年も、平成27年5月の團菊祭で「慶安太平記」が上演されるなど、今も時に舞台に掛けられ、ここでは、由井正雪よりも丸橋忠弥が活躍する。初代市川左団次演じる丸橋忠弥が江戸城堀端で、わざと酔った態で、堀に石を投げ入れて深さを探り、煙管を立てて堀の大きさを測るところに幕府の柱石で知恵伊豆と呼ばれた松平伊豆守が傘をさしかける場面は大人気だったと伝えられる。
なお、由井正雪には、将棋の家元第二世名人大橋宗古と名人の香車落ちで指した将棋の棋譜が残っており、それが現在の将棋歴史書にも記載されているようだ。
改めて時の流れをみると、「碁太平記白石噺」は、事件発生から100年以上あとの安永9年(1780年)、当時の通人紀上太郎(きのじょうたろう・豪商で狂言作者)烏亭焉馬(うていえんば・大工で文化人)及び容楊黛(ようようたい・医師で「鏡山旧錦絵」の作者)の3人が、50年ほど前の宮城野信夫の敵討ちの件を取り込みつつ、事件を換骨奪胎して合作で初演したもので、江戸時代の作者の、碁を媒介としつつ遠い過去のことを巧みに組み合わせて面白く見せる力にただただ驚くのである。(2023年7月25日記)
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