前二回に続いて、歌舞伎と囲碁の話。今回は「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれい・しんこうき)」の「金閣寺」の場である。この演目における囲碁の役割はかなり大きく、「碁立」と名付けられた場面まである。この芝居は、後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎が戦国末期の梟雄松永弾正久秀を相手に活躍する。碁に関係するあらすじは次のとおりである。
天下を狙う松永大膳(まつながだいぜん・歴史上の松永弾正)は、桜満開の金閣寺に陣取り、将軍の母慶寿院をその楼上に押し込めて、画聖雪舟の孫雪姫達に龍の絵を描かせ、姫を自分のものにしようと企みつつ、弟の鬼藤太と碁を打っている。そこに現われたのは此下東吉(このしたとうきち)で史実の木下藤吉郎。小田春永(織田信長)の家来だったが、主君を替えて大膳に仕えたいと申し出る。大膳は怪しむものの、とりあえず碁の相手をさせる。東吉は遠慮なく打ち進め、途中雪姫が大膳の意に沿うそぶりをみせるので、大膳が舞い上がったか、碁は東吉の勝ちとなる。この場面で、セリフや義太夫の語りに「四つ目殺し」「一間とび」「岡目八目」などの囲碁用語がちりばめられている。碁に負けた大膳は、碁笥を井戸の中に放り込み、手を濡らさずに取ってみよと難題をふっかける。東吉は、とっさに建物の樋をはずして、その樋で庭の滝の水を井戸に注ぎ入れ、水面を上昇させて無事碁笥を掬い上げる。東吉の知恵に感心した大膳は、彼を召し抱えるというのが、この碁立の部分である。
その後、本心では大膳の意に従うつもりなど微塵もないどころか、彼を父の仇と知って襲いかかるを雪姫を、大膳は縄で縛り付けてしまうが、さすがは雪姫、縛られながらも、足の爪先で散っている桜の花びらで鼠をつくり、その鼠が本物になって、縄を食いちぎる。その後も舞台上で金閣寺の楼上と階下を上下するというスペクタクルがあり、最後、やはり春永の家臣の立場を堅持している東吉によって、大膳は追い詰められ、またの日の決戦を約束して別れることになる。
このように、この演目では、碁そのものが、ストーリーの進行上大きな役割を果たしている。私は、一昨年秋他界された2世中村吉右衛門丈の昭和41年帝国劇場での襲名披露公演でこの演目が上演され、吉右衛門丈が実にさわやかに東吉を演じられたのが忘れられない。後日、吉右衛門丈は、その舞台で、手にした樋がとても重く、井戸に差しかけるのに苦労したという話をされていたようにも記憶する。
ここで面白いのは、松永大膳という名前だ。勧善懲悪で締めくくられる歌舞伎では、善人役と悪人役がはっきりしている。もちろん「モドリ」という役どころもあり、悪人と思わせておいて、実は善人の味方だったというストーリーもよくあるが、一般に、顔の作りからして分かりやすくなっており、善人は白塗り、悪人は赤ら顔である。ただ大悪人は、白塗りながら髪を長くのばしケンのある顔につくってすごみを利かせ、いかにも天下を狙うのにふさわしい貫禄を示す。悪人は顔や扮装だけでなく、名前でもそれらしく付けられることが多い。
「大膳」はそんな悪役に使われることが多い。ここでの松永大膳はその典型で、国崩しという天下を狙う大きな悪役になっている。「新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)」の秋月大膳も国崩しの悪役だ。「天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)」通称「河内山と直侍」でも、主役の河内山宗俊の正体を見破ろうとする北村大膳は、国崩しでは全くないが、敵役的な人物であり、「とんだところに来た(北)村大膳」と河内山に名セリフを言わせる役でもある。そもそも、大膳は、宮中での料理の担当部署、今もその名が残って、極めて大切なお仕事であり、芝居でも、正義の大膳がどんどん出てきてほしい。
「玄蕃」も同様に悪役に使われやすい。歌舞伎十八番のうち「毛抜」の八剣玄蕃(やつるぎげんば)、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ・てならいかがみ)」の「寺子屋」に出てくる春藤玄蕃、「妹背山婦女庭訓(いもせやま・おんなていきん)」の宮越玄蕃がその例だ。玄蕃の名は律令組織の治部省に属する玄蕃寮に由来しており、この機関は宮中の仏事や外国使節の応対などを受け持つ大事な役割を負っている。金沢には、前田家の重臣に津田玄蕃というお家があり、このお家のもとは室町時代の政権トップ層の一角、斯波家であって、金沢城近くに玄蕃町という名前の町があった。
「弾正」は、芝居の中では松永大膳となっている松永久秀が受けていた官名であるが、これにも歌舞伎では、「伽羅先代萩(めいぼく・せんだいはぎ)の仁木弾正(にっきだんじょう)という有名な悪役がいる。また、「鏡山旧錦絵(かがみやま・こきょうのにしきえ)」では剣沢弾正なる敵役が登場し、その後日譚たる「加賀見山再岩藤(かがみやま・ごにちのいわふじ)」では望月弾正という悪役が出てくる。そんなことで、「弾正」も悪役に用いられやすい。しかし、「毛抜」では違う。主役粂寺弾正(くめでらだんじょう)は、若衆や腰元にちょっかいをかけて悪さをするものの、基本的には正義の武士で、最後は前述の悪人八剣玄蕃を成敗する。このように善悪両方で目立つ「弾正」は弾正台という官庁からきている。中央官庁の監察や都の風俗取締のような役割を担う重要な任務の官庁で、織田信長は弾正忠(「忠」は弾正台の3等官)、上杉謙信も弾正少弼(「弼」は同じく2等官)の官名を受けている。
もちろん官の名称が悪役のみに使われているのではない。右衛門、左衛門、兵衛などは、あまねく固有名詞に使われているし、「主水(もんど)」などもいい役に使われることが多い。「采女(うねめ)」は元は宮中の女性の役職で、歌舞伎では、「采女の局」と女性に使われることがあるものの、「加賀見山再岩藤」の塚崎采女などと若衆の男性にも使われている。また、「一条大蔵卿」の主役は「大蔵卿」。これは固有名詞ではなく、源義朝の敗戦後、常盤御前の再婚先がたまたま大蔵卿であった一条長成だったということだが、この名は、字面や発音からしても、主役たりうると考えられたのであろう。
実際、悪役は名前を聞いただけで悪い人間と思わせることが大切なので、一度悪役のイメージが付いた名前は、何度も同じように使われやすい。まれに芝居の脚本を書く私は、悪役の名前は固定したくないと思っており、この「金閣寺」を見ると、いつも悪役名の案出に苦労するのを思い出す。そのうち「大膳」や「玄蕃」や「弾正」を善人に用いた芝居を書きたいが、筆力のない私には無理なことかもしれない。(2023年8月1日記)
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