囲碁も将棋も、うまく打ち、うまく指すには、考えなければならない。ただ、私の場合は、いくら考えても好い手が思い浮かばないので、自分の感覚と速断に基づいてエイヤーと着手し、多くの場合それが想定外の事態をもたらして、敗局への道をたどる。実戦では、相手も間違えるから、最善手からほど遠い悪手の応酬となり、そんな競合いの結果、運がよい方が勝つ。もちろん強い人は悪手を指す確率がやや低く、私のようによく負ける者は、その確率がかなり高いということはある。
私は、仲間の中でも早打ち、早指しである。大会ともなって、3名から5名のチーム同士の対戦となると、我がチーム内では、私が最も早く終局することが多い。たまに時間を使うこともあるが、ヨミを入れるという状態にはほど遠い。そもそもヨモうにもヨム内容がない。よって着手までに経過する時間は、ヨムためではなくて、遅疑逡巡を繰り返すために費消されるだけである。
これに対して、プロ棋士は時間があればどんどん深くヨメる。感嘆するしかない。特に、2日制の対局で、それぞれの考慮時間が8、9時間の長い対局の間にヨミ比べを続けるプロ棋士達の能力には、ただただ驚かされる。まさに「至芸」というべきだろう。学生時代に和敬塾の講演会で「『技』を磨き、それが『術』にまとまり、深まって『芸』となる」という趣旨を話された将棋の木村義雄名人のことが脳裏に蘇る。『芸』には時間が必要なことが多い。
かつて、毎日新聞の本因坊戦観戦記の中で、直木賞作家として著名な田岡典夫が、「深夜に街を歩く者、『碁打ち、俳諧、小盗人』」という古い「言い回し」を紹介されたことが忘れられない。ここで、囲碁棋士もコソドロと並べられて、いい迷惑かもしれないが、連歌師の歌仙巻き終わりが夜遅くなるように、棋士が時間を使ってよく考え丁寧な対局をすれば、終局が深夜になるのは当然の帰結であろう。ただ、現代なら、仕事の終わりが深夜に及ぶ職業はいろいろあるから、「小盗人」と言わなくてもよかったと思われるが。ただ、この言い回しは、「碁理夢中」という囲碁教材格言集No771では、「碁打ち俳諧小泥棒」とあって、「碁や俳諧に強くても、あまり世間の役に立たないこと」を指し、遊びにのめりこまず、仕事に励むことを奨めるものとされているようだ。しかし、「小泥棒」という表現の並びでいうと、やはり、碁打ちと俳諧は、深夜往来やむなき人々と解するのが妥当と思われるが、このあたり、古典に詳しい方の見解を伺いたい。
ところで、最近、重要な対局は、モニターカメラによって我々も見ることができるが、一般的には、我々観戦者にとってプロの着手が速くすすむ方が嬉しい。NHK杯とか銀河戦竜王戦の対局時間が理想的で、2時間以内でプロの対局を堪能できる。最近はAbemaTVの将棋でフィッシャールールを用いて、超短時間の指し手を続けて勝負をつける非公式戦の対局も行われ、このフアンも多いが、このルールについては、稿を改めて論じたい。
このところAIの発達で、それぞれの局面における最善手と勝率が容易に分かるようになり、対局者の対局中外部接触が厳禁されるようになったから、これが、今後さらに対局時間を短くする方に作用することが想像される。だんだん、そうなっていくかもしれないが、私は、一方では短時間対局を十分エンジョイするとともに、他方、プロ棋士が考えに考え抜いて、AIの示す最善手やAI超えの手を案出することを期待して、持ち時間の長い対局を楽しみたいと思っている。
さて、そんな考慮時間とは別に、将棋の先崎学九段の随筆集「盤外戦」に出てくる「腕時計」の効用の話が面白い。それは、東京在住の先崎九段の大阪での対局での出来事である。九段は腕時計を忘れて大阪に行き、いろいろ対策を講じたものの、結局時計無しで、不安を覚えつつ対局に臨んだ。幸い対局相手の棋士は自分の腕時計を腕から外して畳の上に置いたので、九段からもその時計は丸見え。今何時かはよく認識することができ、それが心の余裕となったか優位に対局をすすめえた。しかし、何と対局相手はその時計にハンカチを被せたのである。プロの囲碁将棋の対局は、いうまでもなく、考慮時間の残り時間が一義的に重要であり、今が何時であるかは、どうでもいいように思えるが、時刻を決めて設定されている休憩時間や食事時間の前に着手するか、その後かは、着手内容に微妙に影響するだろうから、現在時刻をしっかり認識しておくことは重要でもあるようだ。この場合、先崎九段は、記録係に時間を尋ねて解決したそうだが、そんなことで、対局に没頭している対局者も、決して日常時間の経過と無関係ではないことが知られて興味深かった。
その際、面白いのは先崎九段が、30代、40代の棋士には、時計を外して横に置く人が多いと述べられていることだ。この対局時には、九段は20代だったと推定されるから、腕時計を外す棋士は、今は60代から70代ということになろうか。私は、それより更に年寄であり、しかも将棋棋士ではないが、確かに講演する時や、会議の司会を務める時には、腕時計を外して、卓上に置くことが多い。あまり時間を気にするような態度を見せないで、時間内に講演を終わり、会議を纏めるため、絶えず自然に時計が目に入るようにするためである。そうするには、数値表示のデジタルタイプより、針が動く時計盤形式の腕時計が遙かに便利だ。しかし、私より遙かに若い人達は、あまりそのようなことは気にせず、時刻を知りたければ、堂々と左腕を見て腕時計を覗けばよいと考えるのであろう。「時」との付き合い方もさまざまであることが、九段の筆から知られて、とても感慨深かった。(2023年8月20日記)
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