(29)囲碁と歌舞伎[4]碁盤忠信

 囲碁と歌舞伎の4回目は、「碁盤忠信」である。忠信とは佐藤忠信のことで、源義経麾下の武士、「義経四天王」の一人に数えられる。

 義経四天王と言えば、まず、歌舞伎十八番のうち「勧進帳」に登場する亀井六郎、片岡八郎、駿河次郎及び伊勢三郎の4人が思い出される。これら4人はいずれも勇壮な若い武士なので、「勧進帳」の上演の際は、上記4人のうち誰かを老年の常陸坊海尊と入れ替えて、舞台に変化をつけるのが通例である。海尊は、他の四天王の水衣や袴に、青色、緑色、紫色などを用いるのに対して、黄色や茶色の衣装をつけ、頭髪は白髪につくる。舞台上では、義経の逃避行を主導する一行のリーダー武蔵坊弁慶を助ける副将といった立場である。なお、武蔵坊弁慶は、四天王には入らない。

 これらの「勧進帳」の四天王とは別に、源平合戦の最中などに命を投げ出して義経に尽くした4人も義経四天王とされ、鎌田盛政、鎌田光政、佐藤継信及び佐藤忠信の4人が挙げられている。鎌田盛政と光政は、義経の父義朝の第一の郎党鎌田政清の子供である。政清は、義経の父源義朝の乳兄弟で、義朝が平治の合戦に平清盛に敗れ地盤の東国に落ち延びて再起を図ろうと、政清の舅尾張内海荘の領主長田忠致を頼るが、忠致の裏切りにあって主従ともども命を落とし、後に頼朝の世となって厚く菩提を弔われる源氏の大忠臣である。その子供である鎌田盛政と光政は、父と同じ道を歩んで、義経の平家追討軍の中にあって身体を張って戦い、盛政は一ノ谷の合戦で、光政は屋島の合戦で命を失っている。かくして、この兄弟は義経に命を捧げた。

 そして、佐藤継信、忠信兄弟である。この二人は奥州で育った義経が兄頼朝の許に駆け付けるとき、養親とも言える藤原秀衡が部下としてつけた武士であり、秀衡の期待通りの活躍をした。兄の継信は、屋島の合戦で、義経をかばい平教経の矢を受けて絶命し、主君を救ったことで知られる。弟の忠信の方は、その後も長く義経に従い、源氏が平家を滅ぼした後、頼朝義経が不和の世になっても、義経への忠義を貫き、土佐坊昌俊の堀川夜討ちの際は、義経とともに防戦して敵を追い払い、また義経吉野逃避の際は都に留まって義経のために働いた。歌舞伎において、忠信は三大名作義太夫狂言「義経千本桜」で主役の一角を占めて大活躍する。ここでは、まず、忠信とおぼしき人物が伏見鳥居前で、義経の愛妾常盤御前の危機を救って、吉野山の義経の許へ急ぐ彼女を守護し、無事、義経の避難先である河連法眼の館に送り届ける。ところが、忠信の様子がどこかおかしい。そこに故郷奥州で療養し病が癒えて吉野に駆け付けてきたという別の忠信が現われ、忠信が二人になってしまう。実は先の忠信は常盤御前が義経から賜った鼓の皮として張られた狐の子供だったという筋で、狐は義経を攻めてくる敵を翻弄するというのが「義経千本桜・河面法眼館の場」の一幕である。活躍するのは狐で、忠信本人ではないが、忠信の名前は極めて広く知られ、この狐忠信の場面は、歌舞伎の人気演目となっている。

 そんな歌舞伎には「碁盤忠信」なる演目がある。「義経記」には、忠信と碁盤の関係を示唆する記述は見当たらないが、いつの間にか忠信が碁盤を持って義経の敵と戦うという伝承ができあがったようだ。これに関する演題は、古浄瑠璃や金平浄瑠璃にもあるとのことで、吉野あるいは都の堀川で忠信が碁盤を持って奮戦するという筋になっているようだが、私は見たことがない。この演目は、まれに大芝居で上演されるが、それほど頻繁に演じられるわけではない。しかるに、盛岡市の山車の出し物で、碁盤忠信が盛んに取り上げられているようで、荒事扮装の忠信が黄色い碁盤を高く差し上げて、群がる敵に挑んでいる山車人形はさぞ勇壮で見応えがあると思われる。

 「碁盤」が武器のように揮われて敵を圧迫するが、碁の内容そのものがストーリーになっているわけではない。しかし、黄色い碁盤は、戦闘場面において異色であって、とても目立つ。もちろん尖った角が有力な武器になりうる。しかし、碁盤は、単なる武器という機能を超えて、盤上において対局者同士の神聖で厳粛な戦いの場となることで、刀剣にも比すべき神性を帯びているということではないだろうか。人々が碁盤で戦う忠信に感動するとすれば、碁盤は聖なるものというのがその理由ではないかと、私は思っている。(2023年12月16日記)

石川県人 心の旅 バンガイ編 by 石田寛人

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