前々回に本欄に書いた「碁盤斬り」について、金沢の佃優子さんに加え、東京で碁を教えて頂いている小林千寿さんからも、この映画を観るように奨められ、今月4日の日曜日の朝、新宿伊勢丹向いの映画館キノシネマに出かけた。
私が映画館に行くのは久しぶりで、前回を思い出せないほどだ。映画館といえば、小学生の時、学校から行った集団の映画鑑賞が懐かしい。最初に見たのは天然色のソ連映画「石の花」。ストーリーはさっぱり分からなかった。学校に戻り先生から主人公の名前を尋ねられて答えられず、ダニールシカと聞いて、そんな人が出ていたのかと感心する始末だった。
「ゴジラ」もそんな映画鑑賞で見た映画だ。「オキシジェンデストロイヤー」で海の水がブクブク泡立ったのに目を見張った。酸素を破壊してゴジラを退けるこの装置を私は「オキシジェンデ・ストロイヤー」と発音していた。そんな子供の頃を思い出しながら、キノシネマの深い客席に体を沈めたが、入場した観客は20名ほど。全席数が300ほどだからガランとしており、私は前が通路の見やすい席に座ったが、左右には誰も居なかった。そのうちに映画がはじまり、周囲のことは全て忘れてスクリーンに没入した。
「碁盤斬り」のストーリーは、前々回の本欄に書いたとおり、落語「柳田格之進」を下敷きにしたものだ。しかし、それに大きな別の筋が絡んでおり、それによって、この映画は落語から離れて作品としてどっしり存在感のあるものになっている。よって、前々回述べたように、そのあらすじはここには書かない。
最初、草彅剛扮する主人公柳田格之進のつくりが随分若いように感じて、清原果耶演ずるお絹とは、親子というよりも、恋人同士か夫婦のように見えた。しかし、これは、正義一筋に生きてきた格之進の若さを強調するため、故意にそのように演じたと思われ、萬屋源兵衛一家と付き合って碁を楽しみ、五十両紛失の嫌疑をかけられ、それが晴れるというプロセスを経て、これまでの自分の生き方を別の目で見るようになった時、年齢相応の柳田格之進になったと受け止めた。
この映画は、碁を知らない人も、製作者の意図を十分に汲み取ることができよう。それは、正義を貫けば犠牲をともなうことがあると訴えかけているところにあると思われる。人間全て、正義感を持ち、正義に生きるように努めなければ、この世は、人倫がグダグダになって社会は安定性を失い存続しえない。しかし、具体的な局面において、正義をどこまで貫くか、正義以外の価値にいかに目を向けるか、正義とは誰にとっての正義なのか、判断が難しい場合も多い。格之進は、碁盤を斬ることによって、道義追求による社会や組織の健全性安定性の維持と、具体的局面における妥当性確保のバランスが大切なことを行動で示したのではないだろうか。
この映画には、元七冠でいくつも名誉タイトル称号を所持される井山裕太王座碁聖十段や女流三冠の藤沢香菜七段が画面に顔を出しておられると聞いたので、懸命に探したが、うかつな私はそれと認識できなかった。源兵衛の店で働く弥吉が碁を習うところで、「石の下」の筋がでてきたが、格之進と敵役柴田兵衞の囲碁対決の場面で、大石の生死に関して、同じ手段が出現したところに興味を惹かれた。私がこれまで沢山打ってきた下手な碁で、「石の下」によって相手の石を仕留め、あるいは自分の石が取られたことがあるかどうか、はっきりした記憶には残っていない。深く考えることなくその場限りで石を打ち下ろしてきたためと反省することしきりである。
なお、前々回のバンガイ編では、当初「碁盤切り」のタイトルを使い、今回の一文を書いたのを機に「碁盤斬り」に改めたが、「切り」と「斬り」は、かなり感じが違う。前者は広く一般的に「あるものをきる」ことを示すのに対して、後者は今や「人間をきる」ことに特定されるように思われる。「碁盤斬り」は人間の代わりに碁盤を「きる」のだから、「斬り」の表現を用いるべきであるが、これに似た場面として、有名な歌舞伎演目「梶原平三誉石切(かじわらへいぞう・ほまれのいしきり)」の手水鉢切りがある。梶原平三は、自分が目利きした銘刀が、大勢の前での二ツ胴切りに失敗したかと見せかけて、実はそうではないことを示すため、刀の所有者六郎太夫とその娘の梢を両側に置き、手水鉢に写る二人の影を二ツ胴に見立てて、見事に石の手水鉢を切断する。これがこの芝居の眼目で、中村吉右衛門や市村羽左衛門によってよく演じられた(羽左衛門の場合は外題が替わる)。この場合、手水鉢の石を切るプロセス自体にポイントがあるので、「斬り」ではなく「切り」の表現が使われているのも妥当なように思っている。
とまれ、2時間の上映を見て、満足感とともに外に出たら、太陽がとてもまぶしかった。(2024年8月21日記)
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