(43)椅子対局

 かつて金沢での名人戦の後に、夜遅い食事をお相伴させて頂いた前の名人で永世竜王と永世棋王の資格保持者渡辺明九段の動静がニュースになっている。膝の具合が悪くて、対局途中での投了、あるいは不戦敗ということになったと報じられた。また、漫画家の伊奈めぐみさんと昨年の「いい夫婦の日」に同居離婚されたとの報道もあった。詳細は分からないが、九段が引き続き素晴しい将棋を指し続けて、将棋界を牽引し続けられることを祈るのみである。

 気になるのは、膝の具合だ。実際、長時間の和室での将棋対局で、長時間座り続けるのは容易ではなく、まして、かなりの時間、正座されているのは、足への負担は大変なものだと想像される。九段の膝が画期的に良くなることを強く期待したい。

 和室での着座については、私も苦しい思い出が多い。謡曲の稽古と舞台や茶道の稽古と茶会で正座を続ける負担に関してである。とはいうものの、若い頃はそれほど苦痛を感ずることなく普通に正座できた。

 謡では、先生の言われるとおりに発声しようと努力しつつ、なかなか思う通りの声が出ない自分にいやになりながら長時間畳の上に座っていてもそれほど足は痺れなかった。学生連盟の能楽会で連吟や仕舞に出て、水道橋能楽堂の舞台の板に坐っても辛くはなかった。謡や仕舞は下手なのだから、せめて行儀だけでもよくしたいと、モゾモゾせずに懸命に正座していた。もっともその頃の体重は60kgほどだったから今とは全く違う。今や、腹が大きく出て、あの頃から体重は20kgほど増え、体力はすっかり衰えた。数年前に、金沢の同級生達と謡を謡う会合があって、事前に、謡い方の確認かたがた打ち合わせを行ったが、その時の短い正座すらとても辛かった。本番は椅子に座って謡う形式だったのでとても助かった。板の舞台で坐って連吟を謡うなどは、今はとても考えられない。

 同級生の宗匠にお茶を習った時にも、正座には苦労した。金沢兼六園の隣の成巽閣でのお茶会に招かれた際、「正座が必要な時は私が言いますから、それ以外は足は自由にしていいですよ」と言われた正客の裏千家坐忘斎お家元のお顔が仏様に見えた。このところ、正座できる時間はますます短くなり、昨年前田家ゆかりの懐德館で開かれた東大文学部のお茶会では、最初から椅子を用意して頂く始末だった。

 2022年の将棋名人戦 挑戦手合い第二局と囲碁本因坊戦挑戦手合い第一局はいずれも金沢で行われ、私も対局室で、開局の状況と初手の着手を拝見する光栄に浴したが、30分にも満たない時間の座布団上での正座に苦労した。

 かくして、私の正座能力は退化の一途をたどってきているが、考えるまでもなく、囲碁や将棋の和室での座布団着座対局は大変な仕事である。なにせ時間が長いから、足や膝にかかる負担は、想像するだに恐ろしい。もっとも、全対局時間を正座で過ごされる訳ではなくて、時に胡座等で膝を崩され、脇息にもたれかかり、あるいは手洗いに立たれたりして足を伸されることはあるが、基本和室で座布団の上に着座して、丸一日あるいはタイトル戦では時に二日連続で対局を続けるのは、身体に大きな負荷が掛かかるのは間違いない。しかし、棋士の皆さんは、そんな対局が生業だから、それにしっかり対応して、この厳しい仕事を続けられている。棋士の皆さんの頭脳だけではなく、その着座能力も大尊敬に値する。

 囲碁の場合は、今や国際対局が多いから、椅子対局もかなり行われる。曖昧な記憶だが、呉清源先生と藤沢朋斎先生の対局では、特別に作った畳の端に碁盤を置き、藤沢先生が畳の上に座し、対する呉先生が椅子に座られるという方式が採用されたように思う。しかし、国内の主立った対局は和室における座布団着座で行われる。

 将棋は、今のところ、国内での対局が全てだから、和室座布団着座方式である。NHKの将棋と囲碁のトーナメントでは、囲碁は椅子方式が導入されているのに対して、コロナの頃を別にすれば、将棋は座布団方式である。

 しかし、渡辺九段のニュースを聴いて、もし、将棋界に椅子方式が導入されれば、将棋棋士の皆さんは、膝や足の心配から解放されて、更に素晴しい将棋を指す方が増えるのではないかとも考えた。若い棋士の皆さんには、それほど苦痛ではない座布団着座方式も、年配の方々には、負担になりつつあるのかもしれない。そんなことで、プロ将棋の世界で、最近、椅子方式導入の検討も若干取りざたされているようにも仄聞するが、導入の決定は、棋士の総意に委ねられるべきなのは当然である。私自身は、和式のしつらえには、強い郷愁のようなものもあるが、棋士の皆さんには、身体の負担を気にせずに長く対局を続けられ、魅力あふれる棋譜と勝負でファンを楽しませて頂きたいと切望している。(2025年2月18日記)

                                                         

石川県人 心の旅 バンガイ編 by 石田寛人

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