(49)勝ちと負けと

 かつて囲碁と将棋は、文字通り国民娯楽であった。今なお、そうであると思いたいが、統計によれば、囲碁将棋人口は減りつつある。将棋は下げ止まったともされているが、往時に比べれば、近年の数字は残念というほかない。

 今も昔も、我々の多くは、企業や組合や学校等という組織に属して働いているが、かつては、その仕事場であるオフィスのロッカーの上に、折りたたみ式の碁盤や将棋盤が置いてあり、その上には碁石の入った碁笥や将棋の駒箱が乗っていた。昼休みともなると、食事を早々に済ませて、囲碁や将棋の対局がはじまることが多かった。

 しかし、今のオフィスの様子はかなり違っていると聞く。そもそも最近はオフィスのセキュリティ管理が厳しく、昼休みといえども、友人のオフィスに気軽に入ることも難しいから、その近況は分からない。しかし、かつてのような部屋の隅にロッカーが並んでいることが少なくなって、収納機能が建物自体に作り付けになっていたり、大きな整理収納庫が備えてあることが一般的で、背伸びしてロッカーの上に碁盤や将棋盤を置くような形にはなっていないことも多いようだ。そんなことで、オフィスから碁盤や将棋盤が急速に姿を消してきた。

 大企業のトップ経営者から伺ったところによれば、その方が、初めて役員になったときには、自分より年長の役員のほとんどが囲碁を打たれたのに、自分が社長になったら、碁をたしなむ役員はほとんどいなくなっていたとのことだった。かくして、囲碁は、熟年の経済人からも、段々遠いものになってきている。私の知り合いの企業人にも、碁をたしなむ人はめっきり少なくなった。これは、この世の趣味が多様化して、囲碁将棋以外のインドア・アウトドアの娯楽が増えたせいでもある。

 何人かの友人と話した結果、囲碁も将棋も、「勝ち負け」があるのが普及しにくい大きな理由ではないかと、私は思うに至った。「勝ち負けさえなければ、碁をするのだが」と明言はしないまでも、そのような気持ちの人が多いように受け止めたのである。囲碁も将棋も勝負事である。勝ち負けをつけることが、対局の目的の全てとは言わないが、主たるターゲットである。持碁や持将棋、千日手を別にすれば、勝ち負けの無い囲碁将棋はあり得ない。さすれば、我が観察結果は、何とも大きい矛盾に逢着してしまったことになる。

 人は誰でも勝てば嬉しく、負ければ悔しい。勝ったときの気分は爽快かもしれないが、負けたときには、不愉快だ。そこで、企業幹部の方々は、その人生において、大きく負けた経験の少ない方が多く、いい年になって、初心者として囲碁を学びはじめるのに大きな抵抗感があるようだ。どうしても、初心者は負けがこむことが多いと思われるのであろう。私自身は、負けることが多い人生を送ったけれども、企業幹部のそんな心境は十分に理解できる。やはり「負け」は辛いことなのだ。まして人生の熟年に達しての負けはなるべく経験したくない。

 あるいは。毎日、激しい競争社会の中にあって同業他社や関係方面を相手に無数の勝ち負けを重ねながら仕事を続けるビジネスマンにとって、これ以上、囲碁や将棋で仕事と無関係な勝ち負けの経験をしたくないという気持ちになることもあろう。生きるには、仕事上の勝負が第一なのは当然だ。

 我々の世界には無数の勝ちと無数の負けがある。我々は、勝ちと負けをつくるべくゲームを行う。勝ち負けがイヤなら、はじめからゲームをしない方が良い。しかし、体力、腕力、思考力など、人間として生きる力、人生を全うするための力を涵養し、それを測定するためには、ルールを決めて、各種のゲームや競技を行うことが極めて合理的であることを、我々の先祖は認識して、それが、現在に至るボードゲームや近代スポーツになってきたという一面があると思う。

 我々動物は、そして生き物全体は、それぞれの個体として、さらには種全体として、無数の戦いに勝ち抜いて、その結果が、今日、それぞれの生存に繋がっている。我々は勝ち抜いた生き物の末裔なのだ。勝ちを好み、負けを嫌うのは、遠い先祖から体内に蓄積してきて我々の中にある「生きるための勝利への強い欲求」の現れでもあるように思う。

 しかし、今や、我々はスポーツやゲームに負けても、生存が脅かされることはない。コントロールされたスポーツや囲碁将棋の試合では、グッド・ウィンナーでありたいが、我々はルーザーにもなりうるから、勝者をリスペクトしつつ、負けを上手く受け止め客観的に見つめて、それを次に生かす気持ちも大切である。すなわち、グッド・ルーザーになる覚悟である。これは、言うは易しくて、なかなか到達できない境地ではあるが、グッド・ルーザーたるべく努めることも、この世を生きる上に大切ではないだろうか。(2025年8月24日)

石川県人 心の旅 バンガイ編 by 石田寛人

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