私の属する囲碁グループは、三、四十人程の構成で、年に3回ほど集まり、相互に2,3局を打って楽しんでいる。メンバーは多彩で、経済人が多いが、私のような公務員OBも交じっている。毎回、日本棋院の高段棋士と女性棋士をお招きして、メンバーのうちの数人が2.3面打ちで指導して頂く。
そのグループで、私に対して、高段棋士に指導碁を打って頂く順番が来たと予告があった。これはとても嬉しいことだが、指導棋士が張栩九段と聞いて、緊張感がにわかに高まった。張栩九段は誠に素晴しい棋士であることは誰も知っていて、その人柄に惹かれるところは大きい。実績も2009年に十段を獲得されて、名人・十段・天元・王座・碁聖のタイトルを同時に持つ史上最初の五冠王となり、その前に持っていた本因坊、後に獲得された棋聖を合せて、七大タイトルを経験され、趙治勲名誉名人につぐ史上二人目のグランドスラム達成者となったトップ棋士中のトップ棋士である。指導碁とはいえ、この大棋士と盤を挟んで、着手を交わすことは大きな名誉であり、私はいろいろ思いを巡らせた。
張栩九段について、「ちょうう」と読むことに、私は前から不思議なものを感じてきた。「栩」という漢字は、私どもにとって、あまり馴染みがない。しかし、この字は高校の漢文で習うことがある。それは、「荘子」の「斉物論」篇にある「胡蝶の夢」のくだりである。原文は「昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也」ではじまる。
全体を読み下せば、「昔者(むかし)荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら楽しみて、志にかなえるかな。周たるを知らざるなり。にわかにして覚むれば、すなわちキョキョ然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを。」[キョキョは「遽」にクサカンムリをかけた字を二つ重ねる]となる有名なくだりである。最後は「周と胡蝶とは、すなわち必ず分有らん。此れをこれ物化という。」と締めくくられる。
意味は、「荘周は夢の中で蝶になった。ひらひら飛んでいて、蝶そのものだった。自分自身が楽しくて、思いのままだった。自分が周であることに気づかなかった。急に目が覚めて、我に返ったら、そこには周がいた。人間の周が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で人間になったのか。分からない。周と蝶には、必ず区別があるはずである。しかし、この夢のように区別がないことを物化(万物は変化する)という。」というようなことだ。
私は老荘思想は分からない。しかし、この胡蝶の夢の話には、とても興味がある。「栩」の字に出会うのは、囲碁以外ではここだけだから、「栩栩然」の読みは「くくぜん」、「栩」は「く」と読むと思ってきた。しかし、九段は「ちょうう」を呼ばれている。この字は、いかなる字で、いかなる意味があるのか。「栩栩然」の「栩栩」は、羽にキヘンが付いているから、軽く空を飛ぶような意味ではないかと思った。手許の大漢語林を繰ると、「栩」に次の意味があると書いてある。①ブナ科の落葉高木。またとち。トチノキ科の落葉高木。②栩栩・栩栩然は、喜ぶさま。うっとりするさま。ここでは、②の意味がそのまま書かれている。「栩栩然」という言葉は、この荘子の「胡蝶の夢」以外のどこで使われているのだろうか。夢の中で、うっとりと空を舞うような心地は、私でもたまに経験する。夢が真か、真が夢か。夢はごく短いから、私にはこの両方の区別がつかないような境地になってみたいと思うが、とてもそうはならない。
しかし、碁を打っていると、手をよむ能力がないにもかかわらず考えているのか、休んでいるのか、ボケているのか、夢見ているような感じになることがままある。快感といえるだろうか。ともかく、ひとつのことに没頭すると、我流の「栩栩然」の気持ちにはなりうる。
さて、張栩九段にお目にかかって、指導碁を打って頂いた後に、誠に失礼ながら、九段が「ちょうく」ではなくて「ちょうう」と読まれていることに関して、質問させて頂いた。九段は、「栩」の普通の読み方を踏まえながらも、「ちょうく」というと、「ちょう」からはじまる名前の囲碁棋士は趙治勲名誉名人をはじめ何人かおられるので、「ちょうく」では「ちょうくん」と呼ばれるのと間違いやすい可能性もあり、「ちょうう」はとてもいい呼ばれ方と思っていると応じられた。私は、九段が、「栩」を「う」と字のツクリの部分で読む読み方を否定されないのみならず、それを積極的に受け止めて喜んでおられるのに、深く感じ入った。(2026年2月25日記)
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